≪この記事を読むとわかること≫
* 「ストレス」という言葉が、自分を見えなくする理由
* 好きなことをしていても負荷があるという感覚
* 自分を見失わないために必要な「観察」の習慣
* 観察者五行日記という、解像度を上げる方法
* 内観を続けることで起きる価値観の変化
「ストレス」という言葉は、便利すぎる
最近よく思うことがあります。
それは、
「ストレス」という言葉は便利すぎる、
ということです。
何か嫌なことがあった時。
疲れた時。
うまくいかない時。
なんとなく気分が重い時。
僕たちはすぐに、
「ストレスだ」と言ってしまいます。
もちろん、
その言葉自体が間違っているわけではありません。
でも最近、
自分はこの言葉に少し違和感を持っています。
というのも、この言葉って、
あまりにも多くのものを一括りにしすぎてしまうんですよね。
焦りも、
不安も、
認知疲労も、
刺激過多も、
停滞感も、
ざわつきも。
全部ひっくるめて「ストレス」と呼んでしまう。
それって、かなり乱暴なことなんじゃないかと思うんです。
好きなことをしていても、人は負荷を感じている
例えば、
こうして文章を書いている時。
僕はかなり集中して書いています。
楽しいです。
考えるのも好きです。
でも、その最中に無意識に身体をかいたりすることがあるんですよ。
これって結構面白い現象だなと思っていて。
つまり、
好きなことをしていても、
内部では何らかの負荷がかかっている
ということなんですよね。
一般的に「ストレス」というと、
苦しいこと、
悲しいこと、
嫌なこと、
みたいに捉えられがちです。
でも、人間が感じる負荷って
もっと多層的なんだと思います。
考えることそのものにも負荷があるし、
創造することにも負荷がある。
集中することにも負荷がある。
好きなことの中にも、
認知的な負荷はちゃんと存在している。
ここを見落とすと、
「好きなのにしんどい」
みたいな違和感をうまく扱えなくなる気がしています。
「ストレス」と一括りにすると、自分を見失う
問題は、こうした細かな違いを全部まとめて
「ストレス」
というラベルで閉じてしまうことです。
そうすると、
自分の中で何が起きているのかが見えなくなります。
それが焦りなのか。
情報過多なのか。
退屈なのか。
社会的緊張なのか。
単なる身体疲労なのか。
あるいは、自分が成長しようとしている時の認知的な負荷なのか。
それが分からないまま、
「ストレスだから休もう」
「ストレスだから気分転換しよう」
みたいな雑な対処になる。
これが、自分を迷路に迷わせる入り口なんじゃないかと思うんです。
テクノロジーは進化しても、内面は自動では進化しない
今の時代って、本当に便利です。
知りたいことは検索すればすぐ出てくる。
AIに聞けば整理もしてくれる。
欲しいものもすぐ手に入る。
外部環境は、ものすごい速度で進化しています。
でも、その一方で人間の内部はそんな速度では変わりません。
不安。
比較。
焦り。
承認欲求。
恐れ。
こういうものは、
意識して観察しない限り、
勝手に成熟していくことはない。
思考して、
動いて、
違和感に気づいて、
振り返って、
また考える。
この繰り返しの中でしか、
内面の解像度って上がらないんだと思います。
自分を見失わないために、観察者五行日記をつける
じゃあどうすればいいのか。
ここで、自分がかなり効果を感じた方法があります。
それが、観察者五行日記です。
やることはすごくシンプル。
一日の終わりに、5行だけ書く。
ポイントは、「観察者として書く」ことです。
例えば、
「今日は最悪だった」ではなく、
「会話のあと、胸のざわつきが残っていた」
みたいに書く。
感情に没入するんじゃなく、
現象として記述する。
これを毎日5行。
この「5行」っていうのが大事です。
少ないから続く。
負荷が少ないから習慣になる。
これを2〜3ヶ月続けると、
だんだん違和感を察知しやすくなってきます。
「あれ、今ちょっとざわついたな」
「なんかこの場面で身体が固くなったな」
そういう小さな変化が見えるようになる。
そこから、
「なんでだろう?」
と問いが生まれる。
その問いを深掘りしていく。
ここから、
自己理解が始まるんだと思います。
内観を続けると、価値観が少しずつ軽くなる
こういう話をすると、
「それって何の意味があるの?」
と思う人もいるかもしれません。
自分も最初はそうでした。
でも、続けていると確かに変化があります。
それは、
何かを得るというより、
いらないものが少しずつ剥がれていく感覚です。
お金。
所有。
評価。
刺激。
そういうものに対する執着が、
自然と少し薄くなる。
これは諦めじゃありません。
無理やり納得させているわけでもありません。
ただ、
「別にそこまで振り回されなくてもいいか」
と思える瞬間が増えてくるんです。
すると、文章を書いている時間。
朝の空気。帰り道。静かな時間。
そういう何でもない瞬間が、
ものすごく豊かに感じられることがあります。
外の刺激を減らし、日常を見る
だから最近は、
不要なSNSから距離を置くこともかなり大事だと思っています。
特にXみたいな場所は刺激が強すぎる。
比較、断定、煽り、即時反応。
そういうものが、
自分の微細な感覚を全部かき消してしまう。
だから少し距離を置く。
その代わりに、
日常を見る。
空気。
匂い。
違和感。
身体の反応。
その小さな変化に目を向ける。
そこにこそ、自分を見失わないためのヒントがある気がしています。
その先に何があるかは、まだ分からない
正直、この先に何があるのかは自分にもまだ分かりません。
でも確かに言えるのは、
不要なストレスは減りました。
自然な前向きさが生まれました。
人生に対して、少しフラットになれました。
たぶんこれは、
何かを足しているんじゃなくて、
余計なものを少しずつ削いでいるんだと思います。
もし今、なんとなく自分を見失っている感じがするなら。
まずは一日5行。
観察者として、
自分を書いてみる。
そこから何かが始まるかもしれません。
もしここまで読んで、
「なんかこの人、変なこと言ってるな」
と思いつつも、少しでも引っかかるものがあったなら。
たぶん、
僕が書いているnoteの方も、
わりと刺さると思います。
あっちはもっと個人的です。
日常の中でふと立ち上がった違和感とか、
まだうまく言葉になりきっていない気づきとか。
そういう、
整理される前の思考をかなりそのまま書いています。
このブログが“方法”を言葉にしている場所だとしたら、
noteはその前段階にある、問いの発生源みたいな場所です。
こういう少し変わった視点にピンとくるなら、のぞいてみてください。


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